体罰はなぜ認められない?
体罰が社会問題化していますが、少なくとも体罰を教育と結びつけるのはおかしい。いざという時に手をさしのべ、子供の才能を伸ばす手助けをするのが教育(子供主体)であって、こうあるべきという型を決め、そこに子供を押し込めようとするのは調教(教師主体)でしょう。体罰は教育というより調教の一環です。
私だって、子供はいませんが、ベルクで新人を指導する際、理想の店員というイメージがあります。それに合わせ調教しようとします。ただいくら手とり足とり教えても、それだけで人は育たない。その人なりの考えや発見がなければ。それを見守り、へたに手を出さないのも教育です。体罰はその対極にある。
実際には教育と調教は渾然一体とならざるを得ませんが、分けて考える必要もあります。
では、体罰自体はありかなしか。調教と割り切れば、むしろ手っ取り早く効果的な方法なのか?結果さえ良ければ良いのか?
そうかもしれません。議論を離れ、体験談ならそういう話もありでしょう。大人と子供も、一対一の人間同士ではある。相手が子供でも、つい情けなくてひっぱたいてしまう。それを思いやりと感じる子供もいないとは限りません。
ただ、そういうのは一つのアクシデントであって、一概に良い悪いとはいえない。ケースバイケースなので。
しかし、学校のような閉ざされた空間で、無防備な生徒への体罰を「あり」とする空気がもし日常化されたらどうなるか?
今日も痛い目にあうのが嫌で、いうことをきく。怯えているからうまくいかない。結局、痛い目にあう。という悪循環に陥った生徒は追い詰められるばかりで、逃げ場を失います。地獄です。生徒に武装させる?
学校も家庭も子供にとって閉鎖空間である限り、体罰を認める訳にはいかんのです。
店長

このブログ記事をTwitterでみんなに教える!